Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

真夜中のタクシー

飲み屋を出て、腕時計に目をやる。時間はもう既に午前2時を回っている。さすがに疲れた。俺は舗道を歩きながら、タクシーを探す。金曜日のこの時間帯、空車を探すのは難しいだろうか?……

背後から、車のアクセル音。俺は振り向く。運が良いようだ。俺は手を挙げて、空車のタクシーを止める。タクシーの自動ドアが開き、俺は車に乗り込む。後部座席に座り込みながら、ネクタイの結び目に指を掛け、ネクタイを緩める。長かった一日がやっと終わろうとしている。

「どちらまで?」
タクシードライバーが、やや身体をこちらに向けながら尋ねてくる。俺は目的地を告げ、座席に深く身体を沈める。さて、この車中の30分程の時間、どうやって過ごそうか。疲れてはいるが、眠気は特にない。タクシードライバーが、必要以上に饒舌な人でなければ良いのだが。

自分は持っていた鞄を、右側の座席に置こうとした。そして、気付いた。反射的に俺は席から飛び起きた。

誰か、いる。後部座席右側、つまりタクシードライバーの真後ろの席に誰かが座っている。一体、誰だ? 俺はそちらのほうを凝視した。暗くてよく判らないが、人がいることだけは確かだ。長い髪をした若い女性のようだ。

だが、何故だ? このタクシーは相乗り(白タク・つまり違法タクシー)ではない。なのに、何故同乗者がいるのだ。そもそも、タクシードライバーは一体どういう了見なのだ。この若き女性が既に乗車しているのに、何故平気で俺を乗せたのだ。

「あ、あの……運転手さん」
「はい、なんでしょう?」
バックミラー越しに運転手が笑顔を作る。さらに訳が判らない。
「これ、どういうこと?」
「お客さん、どういう意味ですか?」
「いやあの…」
言葉が続かない。一体、何と言えばいいのだ? まさか「この女性は誰? 何なの?」と訊けばよいのか。

俺は覚悟を決め、女性のほうに身体を向ける。女性が軽く笑ったような気がした。
「もしかして、運転手さんには君は見えてないの?」
そう訊くと、女性は軽く頷いたようだった。となると…導き出される答えは一つしかない。

「君は、ゆ……」
女性が軽く唇に人差し指を当てた。黙っていろ、ということか? 不思議なことに俺に恐怖や驚愕はそれほどなかった。何故なのか、それは判らない。ただ、この女性を俺は知っているような気がして仕方がなかった。

「もしかして、俺は君を知ってる。そうだね?」
またもや、頷く彼女。彼女は俺のほうに身体を向け、じっと俺を見つめる。誰だったろうか? 歳の頃なら20歳前後だろうか? 小柄でほっそりとしていた。そして、肩よりも長いストレートの綺麗な髪。

俺はやや酔った頭で記憶を紐解く。朧気な記憶が甦る。もう何十年以上も前の話ではなかったろうか、彼女を初めて知ったのは。
「そうか、思い出したよ。やっぱり君は、ゆ…」
俺は言葉を飲み込んだ。言っても栓のないことだ。彼女の顔に寂しげな笑みが浮かんだようだった。そうか、あの娘だったのか。

この突然の同乗者に俺は懐かしさを覚えた。あの小さかった少女が今はもう大人の空気を漂わせている。月日の経つのは早いものだ、知らず知らずに呟く。
彼女がくすくすと笑い出す。
「おかしいかい? でも、初めて君を見た時は、俺もまだ若い青年だったんだよ。君は勿論、俺のことを知らなかっただろうけど」
彼女はやはり、くすくすと笑っている。

「あれから恋はしたの? 随分と綺麗になったね。昔、ボーイフレンドが欲しいって言ってなかったっけ?」
彼女の返事はない。無言で俺を見つめている。だが、その瞳には優しさが溢れていた。

タクシーの同乗者と言えば、同僚くらいしかあり得なかった俺にとって、思わぬ心弾ませる同乗者だった、彼女は。
このまま、一方通行の会話を一晩中続けていたい、そう思わずには居られなかった。
彼女は何処まで行くのか。彼女はいつまでこのタクシーに乗り続けるのか、それは無論俺には判らない。

タクシーは無情にも俺の住むマンションの前に到達した。
「じゃ、五千円で。お釣りは取っておいて下さい」
タクシードライバーが礼を言う。俺は車内に残った彼女を見つめた。互いに見つめ合ったのは、ほんの一秒程だったろうか?
この物言わぬ素晴らしき同乗者との別れの時。

俺の右腕を彼女は両腕で掴んだ。そして、彼女は俺がこのタクシーに同乗してから初めて口を開いた。
「同乗するなら、金をくれ!」

俺は安達祐実に財布ごと渡すと、タクシーを降りた。