Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

泣きたい夜に

まだ、飲み足りない。もう少し飲みたい。今夜は一人でいたくない。化粧は剥げ欠け、慣れないヒールで指の先が痛む。気分は最悪。あいつなんか死ねばいいのに。
そして私は見知らぬ店の前にいる。

勇気を出して閉店間近の店に入ってみると、客は一人しかいなかった。髪の長い男性だった。私と同世代くらいかな。少し歳上かも。カウンターにだらしなく上半身を投げ出しながら、ロックグラスで透明なアルコールを飲んでいた。彼の横には、半分程空になったボトルがある。あれは、テキーラかしら? そしてカウンターに置かれた灰皿には、彼が吸っているとおぼしき煙草から煙が立ち昇っている。

私は、その男性から二つ程離れた席のスツールに腰を下ろした。初めての店なので、何をオーダーすればいいのかよく判らない。無難にラフロイグのロックにしようかな。
ちらりとその男性客のほうを見ると、彼と目が合った。長い前髪の間から憂いを帯びた瞳がある。どきり、とすると彼が笑いかけてきた。
「姉さん、良かったら一緒にやらないか。テキーラなんだけど」
テキーラは好物だ。正直、今日は散々ハシゴしたせいで、財布の中も軽い。どうせ飲むなら強いスピリッツが欲しかったところだし、奢りとなれば、さらに上等だ。
「いいんですか。じゃ、遠慮なく」
「ママ、グラスと氷頼むよ。あと、ライムのスライスよろしく」
彼はボトルと自分のグラスを持って、私の横に移動してきた。彼の身体から、ほんの少し煙草の匂いがする。

カウンターの中から、ママがグラスを寄越しながら言う。
「お客さん、気を付けてね。この兄さん、酒癖と女癖悪いから。襲われないようにね」
「酔っ払いの相手は慣れてるから、大丈夫です」
私はママにジョークで返す。ママは咥え煙草で笑う。それを見ていた彼も煙草に火を点け、私のグラスにテキーラを注ぐ。
「けっ。冗談じゃねえや。女だったら、俺が誰でも口説くと思ってんだから、ここのママはさ。とんだ偏見だよ」
「そうなんですか?」
私はおどけながら、彼と乾杯のグラスを合わせる。

一息でグラスを空にする。彼は黙ってテキーラをグラスに注いでくれる。カウンターの中ではママが無言で煙草の煙を燻らせている。その隣で洗物や片付けをするバイトらしき女の子。
この店に今いるのは、私を含めてたったの4人。なんて、ささやかで無限に満ちた空間なんだろう…

一緒に呑まないか、と誘ったくせに、彼は無言で煙草を吹かしながら、舐めるようにテキーラを飲むだけ。時々私のほうに、ちらっと視線を投げることはあるけれど、それだけだ。何を話すわけでもなく、ただただ時間だけが、恐ろしく静かにゆるりと流れて行く。
私はテキーラを、今度は味わいながらゆっくりと飲んだ。
「ね。お話してもいいですか?」
私は彼に訊く。彼は顔をこちらに向けながら頷く。
「借金の相談事以外なら、どんな話でもOKだ」
彼のジョークに私は少し吹き出す。すると彼も笑顔を作りながら、右手をひらひらさせる。なんだろ。癖なのかな。
「今夜は随分と飲んできたみたいだな」
「…うん、そうかも。飲みたい気分だったから。もう最低最悪な日だったし」
「俺なんか、年中、最低最悪だぜ。で、どうした。何があった?」
「うん? 言ってもいいかな」
「いいさ。それに互いに見知らぬ者同士だから、言えることもある」

私はテキーラをぐっと飲み、この夜の遣りきれなさを吐き出す。
「今日の夜、ああ、もうカレンダー的には昨日になるけどね。結婚しようと思ってた彼と別れてきた…」
「それで自棄酒か」
「…そう。…駄目かな?」
「いや、全然悪くねえよ。…俺も似たようなもんだからな」
「貴方も恋人と別れたの?」
「まあ、ちょっと違うんだけど。ふん、大して変わらねえか」

「だから、姉さんが来てくれて、俺には丁度良かった。飲む相手が出来たからな」
「こんな時は独りで飲みたい気分じゃないんですか?」
「姉さんはどうなんだ。独りで飲んでたいか? だったら邪魔はしねえけど」
私は首を横に振った。こんな気分の時に一人でいたら、どこまでも落ちていきそう…

唐突に彼は話し出す。
「中島みゆきって知ってるか?」
「知ってますけど。それが何か」
「『泣きたい夜に一人でいるとなおさらに泣けてくる。泣きたい夜に一人はいけない。誰かのそばにおいで』っていう歌があるんだよ」
「ははは。なんか、今の私にぴったりの気分」
「だから、こんな夜は俺と姉さん、見知らぬ者同士でも、酒を酌み交わしていたほうが、良い時もあるってことさ」
「そうなのかもしれないなぁ…」

「今夜は朝まで飲むかなぁ…」彼がそう呟くと、ママが言う。
「うちはもう看板だよ。朝まで飲みたきゃ、他の店行くなり、ホテル行くなり勝手にやっとくれ」

私は彼と顔を見合わせて笑い合った。この夜、初めて本気で笑ったような気がした。