Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

映画監督とバンドマスター

トム・クルーズのミッション・インポッシブル(MI)最新作が上映されていることを、ふと思い出した。久しぶりに映画館に行って映画を観るかと思いつつ、そういやこの作品の監督誰だっけ? と考えた。
映画好きの人達(blogで映画レビューとか書くレベルの人達)は、「xxx監督の作品らしく、〇〇〇が△△△している」みたいな監督の特徴をよくレビューに書いている。
俺はそういったのを読む度に「よくそんな違いが判るな」と感心する。俺は正直言って、映画監督の差異(演出の違い)がまず判らない。MIシリーズに関しては、MI2だけは、判る。監督がジョン・ウーだからだ。ジョン・ウーはさすがに違いの判らない俺ですら判る特徴がいくつかある。

・主人公と悪役は2丁拳銃で戦う。
・何故かそんなとこにいる筈もないのに白い鳩が集まっており、戦いの始まりで白い鳩が舞う。
・アクションシーンでスローモーション多用。

MI2とフェイス/オフはどちらもジョン・ウーが監督だが、なんというか作品のテイストが似ている。アクションシーン辺りが同じような雰囲気なのだ、出ている役者は違うのに。映画に詳しい人というのは、こういった作品の醸し出す雰囲気や空気を監督毎に嗅ぎ分ける事が出来るのだろう。
ただ疑問なのが、映画レビューblogでよく「主人公に@@@と言わせるのも、xxx監督らしい」「あの場面で主人公に□□□の行動を取らせるのはxxx監督ならではだ。〇〇〇監督なら、△△△させているだろう」などと書いている人が多いのだが、それって監督じゃなくて脚本家の問題じゃねえかと思うのだが。
脚本の改訂とか変更って、そんなに簡単に監督が出来るものなのか。また作品の主題に係わるレベルの台詞や行動を監督が変える権限を持っているのか。
こういったものも、生で映画撮影の現場を覗くと判るものなのだろうか。もしそうなら一度見てみたいものだ。

もう1人だけ判別出来る監督がいた。滝田洋二郎だ。この人は広末涼子のファンだ(間違いなく)。『秘密』では、広末さんに「口でしてあげようか」と言わせたり、『おくりびと』では、広末さんが夫に無理矢理行為を求められて、下着姿を見せるシーンがあったりする。どうみても、公私混同である。お前、単に広末にエロい台詞言わせたいだけちゃうんかい、監督権限で広末の下着見たいだけやろ。広末さんがエロい演技をしていたら、監督は間違いなく滝田だ。それ判断材料か?
俺も映画監督になれば良かった。そしたら、仲間由紀恵ちゃんを下着姿に…黙らんか、エロジジイ。ああ、由紀恵ちゃんに「口でしてあげようか」と言って欲し…黙りなさい、エロジジイ!

俺は大学時代は演劇部にいたのだが、完全な素人だったので、演出によって作品が変わるということを理解出来ないままだった。シェイクスピアの有名な作品である「ヴェニスの商人」に出て来るシャイロックは借金のカタに肉を切り取って寄こせという悪人である。だが、ある人の演出だと、一切脚本を変えていないのに、観客はシャイロックに共感し涙するような作品に仕上がっているそうだ。
是非とも、ノーマルなシャイロックを悪人認定する作品と、シャイロックに同情するような演出の作品を見比べてみたいものだ。本当にそんな演出した人がいるのかな? それともただの都市伝説だろうか。

音楽の世界だとプロデューサーが監督に近い立ち位置か。こちらのほうがまだ俺にとって身近な世界の為か、理解しやすい。3月に解散(自然消滅)したブルースバンドでは、俺はバンマス(バンドマスター)の役割だった。これは俺が自分から立候補したのではない。バンドの発起人でありギター担当のK君が「バンマスやってよ」と俺に頼んできたからだ。バンマスの役割はバンドによって様々だと思う。
バンマスって何やるの? と思われる方もいるかもしれない。俺達のバンドで俺がやったことは、以下の2つだ。

・バンドのリハーサルの進行役
・曲の最終ゴールの提示

バンドのリハというのは、通常2時間スタジオの予約を取る。最初と最後は機材のセッティング、撤収があるからフルに2時間練習できるわけではない。大体1時間40分くらいか。その練習時間で、どの曲から始めて、どの曲を中心にやるかなどを予め決めておく。俺はバンドの曲の構成などをメモした五線譜ノートを持っているが、リハ前はいつもそのノートに「練習予定メモ」を作っていた。
バンドは複数曲のレパートリーを持っているけれども、曲によって完成度が違う。だから、単純にレパートリーを順番に演奏すれば良いというものではない。当然、複数回演奏しなくてはいけない曲もあるし、例えばエンディングが上手く演奏出来ていない曲など、エンディング箇所だけ何度も繰り返し練習する必要がある。

そういった予定をざっくりと書いておく。ただあくまでも予定は予定だ。新曲を予定していた時は、新曲がどう転ぶか判らないから、ある程度時間を多めに取っておく。ところが、初回の演奏で思ったよりも上手く行って、じゃ次の曲やろうか、なんてこともたまにある。また、これは1回通しておけば充分かなと思った曲に対して、ベースやキーボードの人から「ここの箇所、しっくり来ないからもう1回やりたい」と予定外のリクエストが来たりもする。
だから、予定は予定でしかない。ただ、「練習予定メモ」を作っておけば全体の練習がスムーズに進むのは間違いない。

「曲の最終ゴールの提示」もバンマスの仕事だった。これはどちらかと言うと、プロデューサー的役割に近い。スローブルース(バラード)は、最初から最後までひたすら落ち着いた感じで行くのか、それとも途中で盛り上げポイントを作るのか、そういった曲のコンセプトをメンバーに提示する。ただ、これはあくまでも切っ掛け提示だけであって、俺のアイディアが最後まで成立することはあまりない。
「ここで、ちょっとブレイク入れて、その後落とそう(演奏ボリュームを下げて、静かな雰囲気を作る)。で、次のワンコーラスから徐々に盛り上げていこう」みたいな。ただ、実際やってみると思ったような効果が得られなくてアイディア却下になったり、或いは他のメンバーから「このパターン、ピンと来ないね。xxxにしたらどうかな」みたいになる場合も多い。

バンドによっては、この意見交換が全くなく、バンマス(リーダー)が全てを決めるバンドもあれば、ほぼ合議制で皆で決めていくというバンドもある。俺はどちらの系統のバンドにも所属したことがあるが、一番良いのは、バンマス(リーダー)がある程度のアイディアを出して、それにメンバーが自分の考えや理想を乗せていくというスタイルだと思う。
バンマスの独裁バンドは、他のメンバーの不満が積もる。「こんなやり方はどうもなぁ…」みたいに。完全合議制だと、各自のイメージをすり合わせるのに時間が掛かるし、ある意味完成形を持たないままの状態になることもある。

ライブのセットリスト(曲の演奏順)をまず決めるのも俺の役割だった。俺達のブルースバンドのボーカルは女性(Mちゃん)だったのだが、彼女が「いきなり速い曲からだと声が出ない」とずっと言っていた。だから、オープニングはスローブルース(Same Old Blues)をやろうと決めていた。そして2曲目以降は曲のタイプで順番を当て嵌めていく。同じタイプの曲を並べると聞いている人はまず飽きてくるし、「なんかさっきと似たような曲だな」という感想を持つ。特にブルースなんて普段聞かない人からすれば、皆同じに聞こえる。俺がクラシックを聴くと全部同じに聞こえる。それと一緒である。

そして一番揉めるのが、ラストの曲だ。ラストはしっとりとしたスローブルースで終わるのか、アップテンポのノリの良い曲で終わるのか。これは正解がない。バンドの特色や個人の想いで変わる。俺はラストは"Nobody Knows You When You're Down And Out"で終わりたかった。この曲でのMちゃん歌が出色の出来栄えだったからだ。だが、他のメンバーがみな「最後はノリの良い曲にしようぜ」となり多数決で負けた。ラストの曲決めだけは、今でも俺は不満が残っている(笑)

映画の話に戻すが、監督の中には役者に意見されるのを嫌う人も一定数いる。有名なところだと北野たけしだ。彼は自分に演出や演技に関して意見を言う役者は2度使わないと言う。
また、役者の中にも監督や他の出演者に演技の方向性や演出の考えを口を出す役者もいれば、一切意見を言わずに監督の駒に徹する人もいると言う。この辺りもどちらが正解ということはないだろう。ただ、絶対的な正解がないから難しい。
監督の数だけ、役者の数だけ、バンドの数だけ、バンドメンバーの数だけ、それぞれの持つ正義があり、真理があるのだ。
但し、最後にこれが正解だと判断を下す人は必要だけれども。仮に自分自身が正解や真実が判っていなくても、判ったつもりになって最終ジャッジを行わなくてはならない。要するに腹を切る覚悟が持てるかということだ。映画なら監督であり、バンドならバンマスだ。

「由紀恵ちゃん、ちょっとそこで『口でしてあげようか』って言ってみて」「監督、そんな台詞はありません!」「俺がやれって言ったら、やるんだよ」
捕まるな、これは。俺は映画監督には向いていない。