Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

自分を褒めたいとは思わないが、俺は貴方を褒めてあげたい

「自分で自分を褒めてあげたい」と言ったのは有森裕子さんである。正確な言葉は「初めて自分で自分をほめたいと思います」だ。
一流のアスリートともなれば、日常のハードな練習、食事制限などの節制、本番への重圧など余人には想像の出来ない過酷な日々を過ごす。一流であればあるほど、周りからの期待値も高まる。マスコミからの取材などによる精神的疲弊も相当なものがあるだろう。
そして本番で自分が納得する結果を得、「初めて自分で自分をほめたいと思います」と発言したのも「自分は全てをやり切った」という満足感からに他ならない。また有形無形の重圧から解放された喜びもあったに違いない。
この言葉を聴いて「ちっ、有森調子に乗ってんな」などと思った人はいないだろう。もしいたらお目にかかりたい。

さて、では有森さんのようなアスリートでもない、平々凡々なおっさんサラリーマンの俺が「自分で自分を褒めてあげたい」と思うようなシチュエーションが過去にあったか、そして未来において発生する可能性はあるか。
答えは書くまでもない、「否」である。

俺自身の過去を振り返った時に「あん時もうちょっと頑張っておけば良かったなぁ…」という状況は腐るほどあった。そしてそのいずれも、適当にやり過ごしてきた。その結果がこれである。だが、取り立てて大きな後悔はない。何故かというと「俺はそういう人間だから」である。
死ぬ思いをしてまで頑張ったり、歯を食いしばって何かを耐えて、その先の光輝く世界へ到達しようとは思わないのだ、というか思えない。「とりあえず今が程良い感じならそれでOKなんじゃね」とか思うタイプの駄目人間だ。

俺は自分が駄目人間であることを恥じてはいない。頑張る人がいてもいい、それと同じように手抜きばかりで全力という言葉と無縁な人間がいてもいい。そう思うのだ。
つまり俺の人生において「自分で自分を褒めてあげたい」という場面は存在しえないのである。

その反動とは違うのだけれども、俺は自分ではなく、人を褒めたいなぁと思うタイプである。褒めるというのは、ちょっとおこがましいかもしれない。
褒めるまでいかないかもしれないが「良いな」と思ったことは相手に「良いですね」と伝えたい。

俺は東京で働いているので、通勤途中などに多くの若者に遭遇する。最近の若者は御洒落だなあと思うのだが、ピンクレモネードみたいな色の可愛い髪の色をしている人が結構いる。その髪の色を見ると「可愛い色だなあ」と思う。
そこで「君、その髪の色凄く良いよ!」と一声掛けたい。だが、俺のようなオッサンが若者にそんな言葉を発したら「うわっ、マジきもい。なんなの?」と思われる事必至である。思われるだけでなく、口にされるかもしれない。俺としては、純粋に髪が素敵なことを褒めたいだけなのだが、相手はそう受け取らないだろう。
俺が若ければ、そうは思われないかもしれないが、既に還暦が近いおじさん(おじいさん)が言うと問題になるのだ。難しい。

そういう点では、俺の「褒めたい」性分を満たしてくれるのが、俺が通っているピアノ教室の優香先生(小芝風花似)である。彼女は普段から「褒めて、褒めてー」と自分から言っている。
「私、褒められて伸びるタイプなんです」とも。
優香先生も昨今の若者なので髪を赤っぽく染めたりしている。レッスンルームに入って、そういった事に気付くと必ず「あ、優香先生、髪の色可愛いね」と褒めることにしている。すると彼女は「でしょー、でしょー」と返してくるのだ。褒められることに喜びを感じる人は褒め甲斐がある。

去年の夏、優香先生は胸元にハートマークが付いた服を着ていた。最初は気づかなかったのだが、そのハートマークは生地が切り取られている形で、つまり彼女の肌がハートマーク超しに露出していた。そういったデザインの服なのである。
俺は「可愛い服着てるな」と思ったが、いかんせん肌が露出している部分を褒めるのはどうなのか。おじさんが若い子の服を褒める、しかも、肌が露出している部分に関してだ。一歩間違うとセクハラである。
だが、彼女は俺の発言をセクハラとは取らないだろうと思い、「優香先生、その胸のハートマーク可愛いね」と言ってみた。すると「でしょー。可愛いでしょー」という期待通りの答えが返って来た。
「ちょっと褒めるか躊躇したんだよねえ。女性の胸の肌が見えてるところを褒めるとさ、セクハラになるかもしれないでしょ」
「大丈夫です。私の場合はそういうの、セクハラにはならないのでー」

優香先生と俺はピアノ教室の先生と生徒という関係があるから、これらの会話も成立する訳だ。全く同じ服を見知らぬ女性が着て街を歩いていた場合、俺はさすがに赤の他人の女性に対して「その服可愛いですね」とは言えない。

以前スペインに行って、街のカフェ(地元民が愛用するような観光客とは無縁の店)で食事をした時のこと。カフェの男性店員は腕に物凄く洒落たタトゥーをしていた。レジに彼が立っていたので、相方に「ね、美しいってスペイン語でなんていうの」と教えてもらい、彼の腕を指さして"ボニート"と言うと、彼は"グラシアス"と笑顔で返してくれた。
こういった見知らぬ人のルックスやファッションを気軽に褒められるのが外国の良いところだ。
日本でこれを迂闊にやると、セクハラどころか犯罪者扱いされかねない。

また、ネットとかでも俺は良いなと思ったら積極的に「褒める」行動に出ようと思っている。具体的に言えば、共感出来たり、面白いなと思えるblog記事を読んだら、それをコメントに書くということだ。
自分に置き換えてみると判るのだけれども、blogを書いてコメントを貰えると嬉しい。やはりなんだかんだ言って、承認欲求がゼロの人間はいない。
blogに限らず、FACEBOOK、Instagram、twitterでも、俺は「あ、いいな」と思ったら「いいねボタン」を押している。

誰かに褒めて貰えるということは、誰かが貴方を見ている、貴方の発言をちゃんと聴いているという証明に他ならない。
独りで生きていける強さを持った人間なら、無人島で誰とも交わらずに生きていけるだろうが、俺は無理だ。
誰もが何かに縋ったり、頼ったりしながら生きているのだ。褒められて嫌な気分になる人はいない。

それに褒めることの良い点は、褒めることには労力も時間も金も掛からないということだ。
褒められた相手は間違いなくそれで気持ちが良くなる。そのリアクションを見た貴方も気分が良くなる。Win-Winだ。
人を褒める行為はコストパフォーマンスが非常に高いのである。

俺は自分を褒めようとは思わないが、貴方のことは褒めたいと思っています。