Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

お客様は神様ですと言うのなら、店員も神様です

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「お客様は神様です」という言葉を文字通りの意味に受け取っている人はいないと思う。もしいたらそいつは馬鹿だ。そんな馬鹿は俺の周りにはいないと信じたい。
書くまでもない事だが、三波春夫さんがお客様を神様だとみなして歌おうという想いが、いつの間にやら気違いクレーマーや迷惑客の免罪符に使われるようになっただけだ。

***
Saxを吹いてもう15年目になる。しかし去年はコロナ、忙しい仕事などを理由に殆ど吹けなかった。もう一度やり直しだと決意を固めた。先週もカラオケボックスに行って3時間程吹いてきた。録音したものを帰宅してから聴いたのだが、どうも音が良くない。
音が良くない理由の95%くらいは、自分の演奏が拙いからなのだが、ちょっとマウスピースを替えてみるかという気になった。
マウスピースというのは、Saxの部品の一つ。口に咥えて息を吹き込む箇所なので、とても重要なパーツだ。また材質によって音色も変わる。俺は今のマウスピースを7年くらい使っている(多分)。そろそろ替え時かもしれない。

Saxを持って楽器店に行った。マウスピースはSax本体と組み合わせて吹かないと意味がないからだ。楽器店に入り、前から狙いを定めていたマウスピースを眺める。楽器屋に行って、楽器そのもの、備品を眺めているだけでも楽しい。ファッション好きの女性がウィンドウショッピングを楽しむのと同じようなものだ。

暫く眺めていたが、試奏させて貰おう、声を掛ける店員を探した。男性店員が暇そうにしている。ここで、若干の助平心が出た。どうせ声掛けるのなら、女性店員にしよう。レジ近くに行き、空いている女性店員に声を掛けた。
「すみません、Saxのマウスピースを試奏させて貰いたいのですが…」
店員さんの胸に名札がある。名前は松木さん(仮名)とあった。
「はい、どちらのマウスピースでしょうか」
俺は彼女に「これらを試奏したいのですが、可能ですか」と尋ねる。彼女は「大丈夫です」と返答し、俺を試奏室へ案内する。
Saxのセッティングを済ませて、待っていると松木さんはマウスピースを5つ持ってやってきた。俺が頼んだのは4つだけれど。
「一つ、アウトレットがあったので、一緒にお持ちしました。陽に焼けているのですが、もし合うようでしたら」

俺は順番に試していく。楽器というのは、楽器と演奏者の相性みたいなものがある。マウスピースもそうだ。人によって口の形は違うし、肺活量とかの問題から、Aさんにはとても吹き易いものが、Bさんには扱いづらいみたいな事象は当然ある。
最初に試した2つはNG。音以前に、息が入れ辛かった。あとは残り3つの中からどれを選ぶかという三択になる。厳密には、どれも買わないという選択肢もある。

その時に松木さんが試奏室のドアをノックした。「いかがですか?」
俺は「最初の2つがちょっと合わない感じですねー」と返す。すると松木さんは「じゃ、その2つ引き取ります」とオミット(対象外)になったマウスピースを片付けて退室する。
残った3つを再度吹く。なんか、響き良くないなあ。自分が長年使っていた(使い慣れている)マウスピースを吹いて比べてみる。これだったら、わざわざ新しいの買う必要ねえかな、そんな気分になっていた。
マウスピースは値段が2万円半ばするのだ。駄目元で買えるような代物ではない。気に入らないものなら買わないほうがマシだ。

またドアがノックされ、松木さんが入室する。
「いかがですか?」
「うーん。なんか何回も吹いてたら、音が良く判んなくなってきちゃったんですよねー」
「判りますー。私もクラ(クラリネット)吹いているので」
おー、そういう事か。Saxとクラリネットは当然別の楽器だが、マウスピースやリードといった、吹くのに必要な部品構成が似ている。だから、そういった演奏者の悩みは共通で判るのだ。
「私、聴きましょうか。音って自分で聴くよりも、人が聴いたほうが判る場合ありますし」
クラリネット奏者である松木さんが聴いてくれるというのなら、音の判定に迷いが生じている俺よりも的確なジャッジを下してくれるだろう。俺は頷いた。

俺が「なんか、音がこもって聴こえるんですよね。正直、これだったら今まで使っていた奴のほうが良いかなあ」と。暗に今日は買わない可能性もあるよと逃げ道を作ろうとする。
「リードは何を使っていますか?」と確認する松木さん。リードというのはマウスピースに装着する備品。これも重要。これがないとSaxは鳴らない。俺が今まで愛用していたものを示すと松木さんは苦い顔になる。
「あー、それはセルマー(俺が試している3本のマウスピースのメーカー名)との相性良くないです。ちょっと待ってください」
暫くして、松木さんは俺が聴いた事のないメーカーのリードを持ってきた。「これで吹いてみて下さい」
松木さんのお薦めのリードをセッティングして吹いてみる。
おっとびっくり。これが同じ楽器か? そう言いたくなるくらいに全然違う音になった。断然鳴るのである。

「うわー。まじかー。全然音違いますねー」
俺は確認の意味で自分が愛用しているマウスピースとリードを使って吹く。松木さんは言う。
「音は確かにそちら(俺の長年使ってるやつ)のほうが大きいんですけど、まとまりという意味ではこちら(買おうか迷っているほう)のほうが良いですね」
松木さんは俺の長年愛用しているマウスピースとリードを確認する。
「これ、使われてどのくらいですか」
「もう7、8年になるんじゃないかなー」
「ああ。なるほど。当時はそれが丁度良かったんだと思います。でも、お客様がずっと吹いてきて経験が増して、そのマウスピースが合わなくなってきたんです。マウスピースが力負けしているんです」
「そっかー。俺、マウスピースは一度決めたらずっとそれを使えばいいかと思ってた」
松木さんは苦笑した「私も年中迷って交換しまくってます。一生それとの闘いですよー(笑)」

当然の話として、楽器店の店員として商品を売りたいという気持ちがあるのは間違いないだろう。だが、俺は松木さんの誠意、誠実さを感じた。
売らんかなだけの精神で、こっちの商品のほうが良いですよという嘘は言わない筈だ。というか言えない。だってSaxとクラリネットという違いはあれど、同じ演奏者だ。同じ志を持つ人間に嘘は言えない。そして松木さんの言葉は信頼して良いと俺は感じる事が出来た。

「せっかくだから、メタルも試してみますか?」
メタルというのはマウスピースの種類で、俺が元々使っていたものだ。今回は俺はそれを購入する気はなかったのだが、もしかすると松木さんが掘り出し物を見つけてくれるかもしれない。
またまた松木さんは沢山のマウスピースを持ってきて、一つ一つ確認させてくれた。残念ながら、合うものはなかったが、俺がリクエストしていないものまで、松木さんは提案してくれた。充分に感謝である。

マウスピースは3つの中で一番気に入ったものに決定した。松木さんもそれが一番良い音がしますと言ってくれた。マウスピースを買うとなると、リガチャー(マウスピースとリードを装着させる備品)も買わなくてはいけない。
松木さん、リガチャーも欲しいんですが、選定手伝って貰えますか」
「もちろんです。その為にいるんですから」
またまた、松木さんは大量のリガチャーを試奏室に持ってきた。俺自身が使ってみたいものをいくつか試す。すると松木さんが言う。
「騙されたと思って、これ試してみて下さい。値段は高めなのですが…」
使ってみる。おー、見事に騙された。というか、いやあこれがベストだ。音が良く響く。
松木さん、うん、騙されました。これにします(笑)」俺は値段も確認せずに購入を決めた。
レジで会計を済ませる。トータルで諭吉さんが5人以上飛んで行った(カード払だけど)。

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松木さんに礼を言う。「今日は本当に納得して満足出来る良い買い物が出来ました。ありがとうございます」
松木さんは「良かったです」と俺に笑顔と名刺をくれた。

俺が松木さんに声を掛けたのは偶然だ。他にも女性店員はいたのだ。たまたま彼女が一番俺に近いところにいた。もし彼女以外の店員に声を掛けていたら、俺は今日はマウスピースを買っていなかったかもしれない。
ギターには詳しいが、Saxの事が判らない店員だったら、俺に試奏だけさせて最後に「いかがでしたー?」で終わりだったかもしれない。また、Saxの事が判っていても、真摯に客を助けようという気持ちがない店員だったら、今日の松木さんのような接客を俺にしてくれたかは判らない。

よくネットで「神対応」なんて言葉があるけれど、神はそんなに安いもんじゃねえだろうと思う。だが、今日の松木さんの態度は間違いなく神対応だったと言えるんじゃないか。

客の中に神がいるのなら、店員の中にも神はいる。