Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

殺意が沸く程に、不味いラーメンを喰った

(このラーメンは俺が実際に食したものだが、今日の記事とは一切関係がない)

若い頃(と言っても30代の頃の話だが)は、食い物に興味がなかった。俺が興味があったのは酒だけだ。飲みに行っても、割り箸が袋に入ったままなんていうのもよくあった。お通しにすら手をつけなかったこともしばしばだった。
当時は職場の同僚に「ランチとか食べるの面倒くさいよね。錠剤3つくらい飲んだらさ、必要な栄養が全部取れて、満腹感を味わえる薬とかあればいいのにね」と言っては呆れられていた。

俺も年を喰って、その辺りはだいぶに変わった。今でも食にあまり興味はない。それでもやはり美味いものを食べれば「うん、美味しいね」と思えるし、不味いものを喰うと悲しい気持ちになる。

毎週木曜日は、相方がスペイン語のレッスンを仕事後に受けるので、晩御飯は別々に摂るという約束がある。或る日の木曜の夜のこと。残業を終え、晩御飯をどうするか考えた。

乗換駅まで一旦帰って、そこで食事をするというのも1つの手だ。だが、そうなると遅くなるし、今日は職場近くの店で済ませよう、そう決めた。
職場の近くに、典型的な街中華の店がある。今まで1度も入ったことがない。この店は外から店内を見ることが出来ない造りになっている。店の前で1分程、逡巡した。こういった小汚い中華屋が思わぬ当りだったりすることもある。
「ええい、ままよ」と店のドアを開ける。入口近くの4人掛けテーブルでサラリーマンらしき人達が宴会をしていた。ああ、ここはそういった店なのか。夜はどちらかというと食事よりも酒メインの店なのだろう。
カウンターがなく、全てテーブル席だ。俺はやはり入口に近いテーブル席に着いた。メニューを確認する。値段も種類も典型的な街中華だ。

味噌ラーメンと餃子を注文。暫く、違和感というか疎外感が拭えなかった。アウェイ感が強い。この居心地の悪さは何なのだろうか。ちょっと説明が出来ない。無論、初めて入る店なんていくらでもある。その度にそういった「しっくりこない」感触を味わう訳でもない。

味噌ラーメンが届く。衝撃を受けた。
見た目からして既に「不味い」のである。断言出来る。この味噌ラーメンは間違いなく不味い。
料理が届いて「わ~、美味しそう~」とインスタ女子が感嘆する場面というのは結構多くあると思う。だが、その真逆だ。おっさんが味噌ラーメンを見て「わ~、不味そう~」と心の中で叫ぶ。これは悲惨だ。不幸でしかない。
見ただけで、ここまで「不味いラーメン」に遭遇したのは人生で初かもしれない。まだ一口も箸をつけていない。でも、判る。この味噌ラーメンは絶対に不味い。

レンゲを取り、まずはスープを一口。
「ぬ、ぬるい…」
まず、美味い不味い以前の問題だ。ラーメンのスープがぬるい。お話にならない。「熱くないラーメンはラーメンに非ず」とタンポポの中でゴローさん(井の頭五郎ではない)も力説していただろうが。
どうやったら、こんなぬるいラーメン作れるんだよ! そして当然のことながら、スープも不味い。これ、味噌ラーメンか? 味噌のコクも何もないぞ。
スープはぬるくて不味い。当然、麺に期待など持てる筈もない。取り合えず麺を啜る。うん、不味い。ありがとうございます、期待通りの不味さです。

具はほうれん草、メンマ、チャーシューと定番ばかり。どれも美味くない。何をどうやったら、ここまで不味くラーメンを作れるのか。是非とも調理場を覗かせて欲しい。
この味噌ラーメンに900円払うくらいなら、コンビニでカップヌードルと御握りでも買って、家で食べれば良かった。心底後悔した。ラーメンを食べ始めてから、5分で俺はこの店を出たくなった。

早く餃子来ないかな、俺は切望した。ラーメンは不味くても、餃子はいけるかもしれない、などというあり得ない期待をしているのではない。早く餃子もラーメンも食べて、一刻も早くこの店を出たいのだ。
こんな場所に1分でも長く居たくない、それだけだ。
餃子が届く。こちらも酷い。焼け焦げているのもあれば、皮が破けて身が飛び出ているのもある。唯一の救いは、ラーメンと違って、餃子は熱々だったことくらいか。
とにかく俺は急いで餃子を食べ、ラーメンを食した。通常、俺はラーメンのスープはかなり飲むほうなのだが、この店のそれはとても飲む気になれない。それでも二口飲んだ。やっぱり不味い。

餃子が到着してから、10分もしないで、味噌ラーメンと餃子を片付けると、俺は早々に店を後にした。俺はレジでは「ごちそうさまでした」と店員に言うのが常なのだが、この日は流石にその言葉を口にする気になれない。「お会計を」と伝えた。

今日のタイトルに「殺意が沸くほど…」と付けたが、実際には殺意は沸いていない。不味い味噌ラーメンと餃子を食べている間、俺が感じていたのは「哀しみ」だった。残業して疲れたところで、やっと食事にありつける。その希望を打ち砕かれたのだ。「哀しみ」以外は存在しない。
まだこれが、友人や相方と一緒だったら話は違う。ヒソヒソ声で「ここ、不味いねー」と笑い話に出来る。だが、残業を終えた中年のオジサン(俺のことだ)が1人で不味い食事を摂る。これを悲劇と言わずして何を悲劇と言うのか。

こうやって初めて入った店で不味い物を食べさせられると、冒険しようという気持ちがどんどん減ってくる。そうなると、チェーン店や既に入ったことがある店にしようとなり、気付けば保守的になっていく。

食事が不味かったら、食欲や空腹感がリセット出来るのならば良いが、そうはいかない。美味しいものであっても、不味いものでも、どちらも食べれば満腹になる。そうなると次の食事の機会まで、不味かったものを打ち消せる機会はやってこない。

そのうち、週末に「蟹料理」か「しゃぶしゃぶ」を食べに行こうと相方と話をしている。美味いものを喰って幸せな気分になるのだ。食い物というのは諸刃の剣だ。人を幸せにも不幸にもする。