Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

戦士の帰還

ついに明日の夜、相方が東京に戻って来る。俺が東京に戻ってから約一年半。離れ離れに暮らしていた日々も終わる。

人生というものは、よく判らないシークエンスの連続だなという気がする。そもそも、俺と相方が一緒になったのだって、想定していない出来事の連続の結果だ。その事は前にも書いた。俺が良いと思っていた女性の同僚が相方だったのだ。(その話はこちら人生は不可解だ - Some Were Born To Sing The Blues

それが、気付けば一緒になった。それもまた一つの人生の選択なんだろう。

一緒になる事を決め、暮らし始めた。それからはよくある男と女の話だ。格別珍しいエピソードがあった訳じゃない。何処にでもある、何処にでもいる男と女の話でしかない。人生後半に差し掛かった40男と30後半の女が生活を共にし、10年以上が過ぎ、二人して50歳を超えた。

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(この写真は12年前のもの。俺もまだ40歳だった。若かったな)

ただ、その間に俺は勤めていた会社が潰れ、フリーランサーになる事を余儀なくされた。
今後の残り人生をどう生きようか、迷っている時に、偶然に正社員になるチャンスを得る事が出来た。その機会を与えてくれたのは相方だ。相方の知り合いのエージェントが正社員の口を紹介してくれた。

尤も、その正社員の勤め先が札幌だったのは想定外だったが。
俺は根無し草だ。何処で暮らそうが、何処で生きようが構わなかった。10代を群馬で過ごし、その後はほぼ東京で暮らしていた。だが、東京が俺にとってのベストの地だったのではない。たまたまの選択肢として東京があっただけ。だから、何処でも構わなかった。
それに反して相方は東京生まれの東京育ち。そして俺と一緒になるまで、東京の西以外で暮らした事のない人間だった。

「札幌に行こうよ。正社員になるチャンスなんてもうきっとないよ」
相方は今までの40数年の東京暮らしを捨てて、俺の背中を押してくれた。相方の言葉がなかったら、俺は今の会社に属していないし、札幌にも行っていない。
俺は残りの社会人人生を札幌で過ごそうと決めた。東京に戻るのは還暦過ぎてからになるだろうとも思った。まさか三年弱で札幌を追われて東京に戻る事になったのは想定外だったけれども。

でも、札幌に行った事で、俺は得難い経験と友人を得た。
50歳にもなってから、親友と呼んでもいい人と出逢えた。札幌の琴似でバーを経営しているHさん、俺はあんたの事を本当に大切な友達だと思っているよ。俺が人生で師匠と呼ぶのは貴方と、俺にドラムを教えてくれたTさん、その二人だけだ(かなり私信に近くなったが、まあ面と向かって言うのも恥ずかしいから、blogで書いておくのも悪くあるまい)。

札幌での仕事は大した事なかったが、バンドもいくつかやれて良い経験が出来た。俺みたいに楽器が下手な奴が、ギターとドラムでバンドを複数やれたのも僥倖だ。ライブも何度も経験出来た。セッションでサックスを吹く機会を得る事も出来た。シンディ・ローパーの「Time After Time」やワムの「Careless Whisper」をセッションの場とは言え、サックスで吹く事が出来たのは、今でも良い想い出だ。
そして尾崎豊の「15の夜」を尾崎豊のバンドでギターを弾いていた江口正祥さんと一緒にサックスをプレイ出来たのも望外の喜びだ。また吹きたいなとも思う。
この歳でそんな経験が出来たのも運が良かったとしか言いようがない。全てを「運」の一言で片づけてもいいのだけれども、それも相方のお蔭だ。全ては相方に起因しているから。

住み慣れた東京を後にして、札幌に引っ越し、友人や過去の積重ねを全て相方は投げ捨ててくれた。実は相方は最初はその事の重大さに気付いていなかったようだけれど。
札幌での暮らしは辛かった事が多かっただろう。ましてや去年の6月に俺が仕事の関係で一人東京に戻り、相方は北の地で一人。札幌で友人が出来たとは言え、決して安寧の日々だったのではあるまい。

意に染まぬ札幌での一人暮らしを一年半過ごし、相方は東京に戻って来る。三年半の札幌暮らしを終えるのだ。
さて、俺は相方に何がしてやれるだろう。俺が彼女から貰ったものをどうやって返せばいいのか、俺にはそのアイディアが今は何もない。
俺の残り人生なんて、どれだけ長くてもあと20年がいいところだ。
その20年で、相方にどれだけのものが返せるだろう。

心許ないが、少しずつ利子から返して行こうとするか。