Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

「シングルベッド」は歌えない

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シャ乱Qの曲に「シングルベッド」という歌がある。俺は、シャ乱Qの「シングルベッド」を一度も聴いた事がなかった頃に、この歌のメロディも歌詞も全て覚えてしまった。
今日はその話を書く。

20代の頃勤めていた会社の同僚に岩佐君という男性がいた。歳は俺の一つ下。入社は俺より一年くらい後。仕事は滅茶苦茶出来た。勿論、俺よりずっと出来た(基本的に、俺より仕事が出来ない奴はあまりいない)。
彼は俗に言う、典型的なオタクだった。髪を肩まで伸ばし、家には大量のアニメのLD(レーザーディスク。まだDVDが出る前の時代だ)。酒も煙草もやらず、女性と付き合った事も皆無。
そして、会社には美香さんという女性社員もいた。美香さんは俺の後輩になるが、俺より三つくらい年上。なので、俺は年上の美香さんには敬語を使っていた。美香さんは、会社の先輩である俺を立てて、俺に敬語。互いに敬語を使い合っていた。美香さんは酒も煙草もやるし、姉御肌のキャラ。イメージとしては、モーニング娘。の中澤さんがかなり近い。

どう考えても共通項も惹きあう要素もないように思われた岩佐君と美香さんが付き合い始めた。それを俺は会社の女性上司から教えられた。確かに異色のカップルだったが、世の中は「どうしてこの男にこの女が?」「なんで彼女があの男と付き合うの」みたいな関係はいくらでもある。
男と女なんて、数式みたいに簡単に割り切れるもんじゃない。だから面白いのだ。
二人が付き合い始めてから、岩佐君は変わった。飲み会の席で、それまでウーロン茶しか飲まなかった男が、ライムサワーや他のアルコールも普通に飲むようになった。さすがに煙草は吸わなかったけれども。
周りは当然、彼の変化が美香さんによるものだとは判っていた。普段、バーボンのソーダ割りを好むと公言していた美香さんだ。彼女の影響を岩佐君が受けたのは、なんら不思議はない。

二人が付き合ってどれくらい経った時かは忘れてしまったが、岩佐君が美香さんを両親に紹介するという話が女性上司から伝わってきた。ははぁ、そうかついに結婚か。それも自然な流れだ。当時、岩佐君が25歳くらい。となると、美香さんは29歳くらいか。結婚するのに早すぎる訳でも遅すぎるでもない、丁度良いタイミングだったろう。

だが、だ。
そこまで話が進んでいながら、岩佐君と美香さんは別れてしまった。直接的な具体的な理由を俺は知らない。知ろうとも思わなかった。なんでも、美香さんが土壇場で全てを白紙に戻したらしい。
暫くして、美香さんは会社を辞めてしまった。
男と女なんて、何がきっかけで付き合うようになるかなんて判らないし、何が原因で別れるかも判らない。そんなもん、当人だって判らない場合があるだろう。

周りの人間は「これで岩佐君はきっと、一生結婚出来ないねえ…」と考えた。不遜な言い方だが、人付き合いが上手いとは言えず、偏屈とも言える岩佐君にとって、美香さんは最初で最後のチャンスだったのだ。
その後も、飲み会で岩佐君は普通に酒を飲んでいた。酒好きの恋人と別れたからといって、一度身に付いた飲酒癖は消えたりはしないだろう。
そして、二次会でカラオケがある場所に行くと、岩佐君はシャ乱Qの「シングルベッド」を歌うようになった。俺はこの歌を知らなかった。最初は「へえ、良いバラードだね」とか呑気に思っていたが、歌詞を確認したら、非常に切なくなった。
恋人と別れ、新しい恋にも出遭えず、元恋人のことを今も思う、そんな歌詞だった。

岩佐君が別れた美香さんを思ってこの歌を歌っているのは明白だった。勿論、周りの皆がそれは判っている。だが、そんな事を口に出すような馬鹿はいなかった。
彼がどんな想いで「シングルベッド」を歌っていたのかは正直判らない。だが、彼が歌いたいのであれば、歌わせればいい。失恋ソングを歌う事で、彼の中で癒される何かがあるのかもしれない。
そして俺は、シャ乱Qの「シングルベッド」を一度も聴く事なく、この歌のメロディも歌詞も覚えてしまった。岩佐君が毎回歌っていたからだ。

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時々、考える事がある。全く知らない事と、たった一つでも知っている事はどちらが良いのだろうか、と。
知らなければ、その世界や事象はその人にとって存在しない事と同義だ。だが、一度でもその事を知ってしまったら、もう知らない頃には戻れない。
岩佐君は最初で最後の恋愛をして、それ以後は女性と交際した事がない。そのまま歳を取って、いまも一人だ。別に一人が悪い訳じゃない。好んで一人でいる人だっていることだろう。
だが、岩佐君は当時、美香さんと一緒になる事を望んだのだ。だから、一人が良かったというわけでもあるまい。
もし彼が美香さんと知り合わなければ、付き合わなければ、女性と一緒にいる喜びを知らずにいただろう。好きな人と一緒だからこそ得られた経験や幸福は数えきれない筈だ。だが、付き合わなければ、好きな人と別れる辛さや悲しさも知らずに済んだ。
どちらが良いかなんて、簡単に断定出来る事じゃない。いや、断言出来る事でもない。

彼が何かに辛くなった時に、踏ん張れる心の拠り所として、美香さんと過ごした時間がそうなれば良いなと思う。回数や人数は関係ない。唯一度であったとしても、愛し、愛されたという経験は、きっと彼を支える何かになるはずだ。

ただ、もう「シングルベッド」は聴きたいとは思わない。