Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

三回間違えても許されるのはJAZZだけだ

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普段、こうやって不定期にBlogを更新しているけれども、当然の話として、人のBlogもよく読ませて頂く。
いつも見ているAさんのBlogを読んでいたら「見も蓋も無い」という表現が出てきた。あれ? と引っ掛かったが、意味は判るからそのまま最後まで読んだ。そして次にBさんのBlogへ行ったら、こちらでも「見も蓋もない」という言葉が出て来た。「見も蓋もない」って表現は流行ってんのか。俺は長い間ずっと「身も蓋もない」が正しい表現だと思っていたから、もしかして、俺がずっと間違えていたのか(いや、意味からしてこの漢字以外あり得無いだろう)と調べた。勿論、「身も蓋もない」が正しい。Aさん、Bさんはたまたま誤変換しただけなのだろう。

そしてたまに見ているCさんのBlogでは「間に受ける」という表現が一つの記事の中で三回も出て来た。最初、これわざとそう書いてんのかなと訝しんだが、内容的にそれは考えにくい。単純に「真に受ける」を間違えただけなのだ。
Blogの誤字脱字なんてのは、もう日常茶飯事だし(誰でも)、いちいち指摘するほどの話でもない。本人が気付いて後で修正すれば済む話だ。そもそも、俺だって年中間違って記載しているのだ。人のささやかなケアレスミスを鬼の首を取ったように言える事でもない。
俺自身は、自分で書いた物は必ず一回読み直して、誤字脱字や、おかしな表現がないかをチェックしたりするけれども、それは「読んで貰う人に対して誠実でありたいから」なんて綺麗ごとが理由ではない。単純に後で間違いに気付くと、自分自身に対して不愉快だからという理由のみだ。

Blogの良い点というのは、人に読ませる前に自分で確認が出来るというところだ。ここが音楽との大きな違い。バンドでのライブ(それはサックスやピアノのソロ楽器でも人前で演奏するという点では同じ)は、一発勝負だからやり直しが利かない。俺は過去に色々な楽器でライブをやったけれども、ただの一度もノーミスで完璧だった事なぞない。これはプロのミュージシャンでも同じではないだろうか。
失敗する度に、ああ次こそはもっと上手くやりたいと願うのだが、なかなか上手くいかない。勿論、演奏の精度を上げるには練習以外の回答など存在しないのだが、練習しても上手くならないのだから、始末が悪い。

JAZZの世界では「ミスも三回連続して演奏すれば、それは正しい演奏となる」という意味不明な名言がある。要するに、音がずれていたりしても、三回続けて演奏すれば、聴いているほうも「ああ、これはなんか不協音に聴こえるけど、そう意図して演奏してんだな」と勝手に解釈してくれるという有り難い「言い訳」だ。でも、普通の感覚の人間だとおかしな音を出したら、「あ、やばい。今のはミスった」となるだろう。そこで「よし、誤魔化す為にあと二回同じフレーズ繰り返すか」と切り替えられる強心臓の人はそういない。だから、三回ミスを繰り返せるというのは、その時点で既にミスでは無くなっているという意味ではないだろうか。

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で、話をBlogに戻すのだが、たまに見ているDさんのBlogはカテゴリに「小説」というのがある。要するに自分のBlogのジャンル分けですな。この人の小説というのを一度読んでみたのだが、明らかに日本語としておかしい表現があったので、大きなお世話ながら、コメントに「日本語の表現としておかしくありませんか?」と滅茶苦茶丁寧に意見を書いた。これが、通常のBlogの記事なら、指摘なんかしない。だが、Dさんは「小説」というカテゴリでその話を書いたのだ。無償であろうとも、日本語で書かれた小説で、その文章がおかしかったら、それは直して然るべきだ。それが読者に対する作者の誠意であろう。
Dさんは「***という意図で書いたのですが、考えてみます」と返信をくれたが、該当箇所はそのままだった。つまりDさんはその日本語が正しいと思っているのだ。
ということはだ。このDさんの小説の日本語作法は俺の知っているものとは違うという事になる。ものは試しで、もういくつか読んでみた。さらに酷い表現があったので、これは駄目だなと諦めた。
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翌日、昨日も@@@だったので、今日も###であった。
***
Dさんの小説の中では@@@、###は日本語で何をしたかが書いてある。
翌日なのか、今日なのか、どっちなんだ? この「小説」を通して読むと意味は判るのだ。だが、ハッキリ言って一文の中に「翌日、昨日、今日」が並んでいる文章は小説として違和感しかない。そこに俺は小説としての美しさを感じない。この文では、今日は要らない。ちょっと推敲すれば、いくらでも別の表現が見つかる筈だ。
勿論、そうやって時制を並べる事による表現方法、描写方法もある。だが、ここでは不要だ。
きっとDさんは推敲も校正もしていないのだろう。というのもDさんの小説には誤字脱字、意味不明な文章が多いからだ。
「この人、Blogにアップする前に見直さないのだろうか?」疑問が湧いた。俺にとって楽器演奏は下手だけれども、凄く大事なものだ。だから本番前には可能な限り練習をする。それでもミスはする。それに比べたら、ネットに載せる文章はアップ前に確認が出来るじゃないか。それすらもこの人はやらないのか。その癖して、「小説」というカテゴリを作って書いているのか。自分の小説を人に読ませる前に、最高の状態にして送り出してやろうという気はないのか、不思議でならない。
自分の作品て、どんなジャンル(音楽、小説、絵画、写真等)でも愛おしいものじゃないのかなあ。

人に何かを訴えたかったら、ベストな状態にして提示するのがある意味当然と言えば当然。それが出来ていないのなら、評価なんか求めちゃいけない。そうだろう?

と、ここまで偉そうに書いておいて、今日のエントリに誤字脱字あったら切腹ものだな。