俺は池波正太郎信者である。書く必要すらも感じないが、池波正太郎は「剣客商売」「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」などの時代物小説の大家だ。亡くなって20年以上経つ。
彼の小説の主題は「人は良い事をしながら悪い事もする」だ。これは首尾一貫している。どの小説にも必ず、悪事を働きながらも、実は良い事をする犯罪者がいたり、まともな商売をやっていながら、裏で悪い事に手を染めている人間が出てくる。基本的に聖人君子なキャラはあまり登場しない。人間というのは矛盾の塊だから、そういった人間臭さを感じられる小説だから、俺は池波のファンなんだろう。
人に限らず、なんでも物事には表があって裏がある。良い面があり、悪い面があるという事だ。数日前にテレビを見ていたら、相方が「やっぱり東京はいいなー。でも、東京だからパーフェクトな訳じゃないしなー」と至極当たり前のことを言った。東京だから全てが完璧の筈もないし、逆に全て駄目というのでもない。これは東京に限った話じゃない。札幌でも同じことだ。
東京時代を思い出すと、非常に便利だったのが、自転車で10分程度のところに楽器屋があり、徒歩5分で音楽スタジオに行けたというのがある。サックスのリードやギターの弦、ピックが欲しい時にすぐ買える。これは大事だ。そして俺はドラムも叩いているから、ドラムの個人練習をするのに、スタジオが近いのは非常に便利だった。
今暮らしている町は、当然楽器屋も存在しないし、音楽スタジオもない。それらは電車に乗っていかねばならない。そういった生活にも慣れたけれども、最初は「あー、ギター見て目の保養するにも電車に乗らなくちゃいかんのかー」とがっかりしたものだった。ドラムの個人練習も、東京にいた頃は思い立ったら、スタジオに連絡して空きがあればすぐに行けた。今はそういう訳にはいかない。だが、これは東京というよりも、俺が暮らしていた東京のあの町が丁度都合が良かったというだけだ。
札幌も当然のこととして、暮らし易い場所である。ジンギスカンは美味いし、家の近くからは山があって景色も良い。東京時代には味わえなかった風景だ。相方は家から山々が見える景色を大層気に入っている。そして当然の事として、札幌にも「ふざけんなよ、札幌!」と言いたくなる部分もある。それは言わずもがなで、冬の降雪だ。これはもうこのBlogで何度も書いているな。
だから、東京にも札幌にもそれぞれ良い点があり、悪い点があるのだ。むしろ、良い点やメリットしか感じられない都市があったら、逆に知りたいくらいだ。そんな町は存在するのだろうか。きっとない。そんなユートピアみたいな場所があれば、誰もがそこで暮らしたがるだろう。
(家のベランダから山が撮影出来るのである)
話変わって。
若い頃の苦い思い出なのだが、ある女性に貯金を持ち逃げされたことがある。当時の俺の年収分くらいを持っていかれた。正直洒落で済む額じゃない。随分と長い間、「あの女ふざけやがって。人がこつこつ貯めた金を…」と恨み辛みがずっと俺の心の底にあった。だが、最近とあることに気付いた(というか、思い出した)。俺が仕事がなく、ブラブラしていた時に、その女性に食わせて貰っていた時期があるのだ。ほんの数ヶ月だけれども、俺は仕事がなく、いわゆる無職だった。その時、彼女のアパートに転がり込んで、完全に衣食住を賄って貰っていたのだ。いわゆるヒモという奴だと思って貰って良い(良いというか、正しくヒモだった)。
だが、当時は俺はそんなことは何も気にしていなくて、そうして貰うのが当たり前のように振舞っていた。今思い返せば、「俺、死ね!」という話である。彼女が「今日はお寿司屋さん行きたい」と言うと「俺、金ねーよ」と答える。当然彼女が「私が払うよ」と言うのが判っているのだ。そして寿司屋で酒をガバガバ飲んで、支払いは彼女任せ。人として、正しく終わっている。本当に「俺、死ねばいいのに」野郎である。
その後、俺は職を得て、自分でアパートも借りられるようになり(親に借金したが。あ、まだ返してないな)、まともな生活を送れるようになった。
そして何年かして、彼女に金を持ち逃げされた。勿論、俺が彼女に食わせて貰った額と、彼女が持ち逃げした額では、持ち逃げ額のほうが断然大きい。だが、俺が生活の糧がなかった時に助けてくれたのは間違いなく彼女である。あの時、助けて貰わなかったら、まともに就職することも難しかったろう。いわゆるタコ部屋みたいなところでその日暮らしとなって、安定した収入や生活を得ることも出来なかったかもしれない。
だとすれば、彼女が持ち逃げした金は、俺の無職生活を支えてくれた費用に利子を付けて返したと思えば腹も立たない。いや、長い間、ずっと俺は腹が立っていたのだけれども、「彼女に食わせて貰ってた時期あるじゃん」と思い出してから、腹を立てるのはおかしいと自分を戒めることが出来るようになった。
金を持ち逃げした彼女には彼女の言い分があるだろう。今更それを訊こうとも思わない。もう、繋がりもないので、当然連絡も取りようがないのだけれど。
金を持っていったのは間違いなく悪だけれども、俺の面倒を見てくれたという事で言えば、それは正だ。これこそ、池波正太郎言うところの「良い事をしながら、悪い事もする」だ。
そして俺はある意味絶望している。過去に散々悪い事をしてきたが、未だに俺は誰かに対して「良い事」をしたという自覚がない。いつか人から「あいつは悪い奴だったが、良い点もあったよ」と言われることがあるのだろうか。どうにも、その自信がない。