Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

25歳に戻れた夜~ブライアン・アダムスのライブを見て来た

3月7日(火)、俺は山積みになった仕事を放り出して(早退した)、日本武道館へ出掛けた。
ブライアン・アダムスのライブを見る為だ。ブライアンは俺の10代と強く紐づいている。以前も書いたが、17歳の頃、俺はかなりブライアン・アダムスを聴いていた。いや、これは正解じゃない。ほぼ17歳の時しか、ブライアン・アダムスを聴いていなかった、それが正解だ。

17歳の時、俺は人生初のガールフレンドが出来て舞い上がっていた。彼女と一緒に時間を過ごすだけで、最高の時間を得ることが出来た。そして2人で一緒にいる時に、ブライアン・アダムスをよく聴いていた。そういうことだ。
今でも、"Run To You"、"Heaven"、"Summer Of 69"という曲を聴くと、ちょっと切なくなるというか、若かりし頃の自分を思い出して、なんとも言えない気持ちになる。これは言葉で説明するのが難しい。

武道館へ到着し、自分の席を確認。俺は事前に席をチェックするということをしない。もし、あまり良い席でないとライブ前にがっかりした気分になるからだ。2階席だったが、なんと1番前の席。あ、これは助かるなあ。もう俺も老人一歩手前なので、2時間のライブで立ちっぱなしは辛い。実際に始まってみると、俺の周りの席の人達はみな着席してライブを楽しんでいた。ふと思う。ブライアン・アダムス自身も歳を喰ったが(もう63歳だって)、俺達ファンだって同じだけの年月を重ねているのだ。若かった頃は2時間スタンディングでロックライブを楽しめたが、今は着席してまったりと楽しむ。それも悪くない。

ライブが始まり、武道館は一気に盛り上がる。シンプルなロックンロール(本当にそれ以外に呼びようがない)。複雑なリズムやアレンジなんて一切ない。ひたすらシンプルにエイトビートが刻まれていく。それが心地よい。しかし、隣の席の女性の手拍子が微妙にずれていて、気持ち悪かったのはここだけの秘密だ。

やはり武道館は良いなあ。レッドホットチリペッパーズのライブは東京ドームだった。ドームはステージが遠すぎるのが欠点だ。音も良くない。武道館だとステージを滅茶苦茶近くに感じることが出来る。
ブライアンが観客席に挨拶する「今夜は特別な日だ。武道館25回目記念なんだー」へー、そんなにやってるのか。
ブライアンはギタリスト(キース・スコット)に向かって言う「そういえば、君も武道館は25回目だね」
バディだな。俺は良いなあと素直に感嘆する。彼らはずっと組んでやってきたのか。

"Heaven"の演奏が始まる。この曲は、17歳の頃に何度も聴いた。ガールフレンドが好きだったからだ。ある意味、思い出の曲と言っても良いかもしれない。だが、演奏が始まり、ブライアンが歌い出しても、俺の中には何の感慨も浮かんで来なかった。純粋に「良い曲だなあ、懐かしいなぁ」だけ。
彼女との思い出も邂逅してこない。甘酸っぱい気持ちにもならない。あれ、なんか俺の想定と違ったな、俺は心の中で苦笑した。ブライアンの想い出の曲を生で聴いたら、色々甦るかと思っていたのだけれども、何もなかった。拍子抜けした。
そうなると、もう後は1人のファンとして彼の歌やバンドの演奏を楽しむだけだ。それで良い。別に無理して10代の頃のガールフレンドとの思い出に浸る必要もないのだ。

そして、バンドは"(Everything I Do)I Do It For You"の演奏を始めた。この曲は俺が17歳の頃に聴いていた曲じゃない。発表されたのはもっと後になる。

俺は思い出した。俺が25歳の頃の話だ。社会人になって2年目。会社の仕事の関係でアメリカのシンシナティに出張に行っていた。当時はMTVがまだまだ人気だったから、仕事が終わってアパートに帰ると、よくMTVを見ていた。長期出張だったので、会社はホテルではなく、アパートを準備してくれていた。
MTVでブライアンの"(Everything I Do)I Do It For You"が流れていた。発表されてから結構時間が経っていたと思うのだけれども、どうしてあんなにヘビーローテーションで掛かっていたかは覚えていない。

一緒に出張に来ていた同僚のA君、B子さんが「せっかくアメリカに来たから英会話教室に通いたい」と言い出した。他の出張組の人から職場近くの英会話教室の情報を仕入れて来たらしい。A君、B子さん、俺の3人で英会話教室に行った。俺は教室に通うつもりはなかった。ただの付き添いだ。英会話を習いたいと言い出したのは、B子さんだろう。A君はB子さんに惚れていたから、親しくなるチャンスだと思って英会話教室を利用しようとしたに違いない。

英会話教室に行くと、受付に金髪の白人女性がいた。背がでかい。体も大きい。「美人だけど、サイズもでかいなー。さすがアメリカだな」俺は感心した。
A君、B子さんは体験レッスンみたいなものを受けていた。俺はそもそも通うつもりがないから、受付辺りでぼんやりとしていた筈だ。受付嬢と「貴方はレッスン受けないの?」「俺はやらない」程度の会話は交わしたと思う。あまりよく覚えていないけれど。

A君、B子さんが体験レッスンを終えたので、3人で帰宅する。と、偶然なのだが受付嬢も帰るところだった。途中まで一緒に歩いて帰る。俺と受付嬢、A君とB子さんがそれぞれ並んで歩く。必然的に俺は彼女と話をすることになる。
この時、互いに自己紹介をしたのか、それとももっと後になってから名前を交換したのか、それは記憶にない。だが、この後俺は英会話教室には行った記憶がないので(忘れているだけかもしれない)、多分この時に名前や電話番号(アパートの固定電話の番号だ)を交換したのだろう。

彼女の名前は"Michelle"と言った。

彼女から「今度バーに飲みに行こう」と誘われて、A君、B子さん、俺の3人でMichelleと一緒にバーに出掛けた。ある程度飲んだところで、A君、B子さんが帰ると言い出した。A君にしてみれば、俺が一緒じゃB子さんを口説けないという狙いもあったのだろう。俺にしても、Michelleと2人で飲めたほうがどうせなら楽しいという気持ちはあった。互いの利益が一致した訳だ。B子さんがどう思っていたかは知らないけれど。

結構飲んで良い気分になった気がする。彼女に「アパートに来ない?」と誘われ、俺は彼女のアパートへ行った。
その夜から、俺は彼女をShellyと呼ぶようになった。

彼女が俺のどこを気に入ってくれたのかはよく判らない。痩せっぽちのアジア人のどこが良かったのか。尋ねたような気もするし、一度も確認しなかったような気もする。
2人で過ごす時間は楽しかった。彼女と付き合った期間は半年弱程度だ。俺のアメリカ出張期間がそれで終わってしまったから。

彼女とは1度も喧嘩をしたことがなかった。言い争いをするような状況にもならなかった。それは単純に交際期間が短かったからという要素もあるだろう。付き合い始めたばかりだから、倦んでいない新鮮な気持ちがあるから、諍うような事にならなかったのかもしれない。アメリカ人と日本人という「互いに違う人間だから」という意識が働いていたのかもしれない。理由はいくらでも挙げられる。だが、結局はやはり相性なのだろう。
俺は彼女と過ごした時間、ずっと幸せで楽しかった。彼女もそうであってくれたら良いのだけれど。

2人で部屋で過ごしてテレビを見ていると、"(Everything I Do)I Do It For You"がやたらと流れていた。俺がこのアメリカ滞在期間中に聴いた曲というと、これとニルバーナの"smells like teenspirit"になる。何故ならShellyがニルバーナのファンだったからだ。今でもファンなのかな?
2人でドライブに出掛けると、彼女がカーステレオでニルバーナのカセットテープを流す。大音量でだ。彼女はハンドルを握りながら、シャウトしていた。

或る日、俺がカレーを作って彼女に振舞うと、彼女は「yammy! yammy!(美味しい)」と喜んでいた。アメリカ人もカレーは好きらしい。

何故か平日に休みが取れて、街から車で1時間程度のところにある遊園地に出掛けた事がある。彼女はジェットコースターが大好きで「休みの日だと、大行列ができるのよ。今日は空いてるわね」と大喜びしていた。どうして俺と交際する女性は高いところが好きなのか? 馬鹿となんとかは…
「俺は高いところは苦手なんだ」と言うと、Shellyが「何度も乗って、貴方をジェットコースターマニアにしてあげるわ」と笑っていた。さすがに何回乗ったかは忘れた。

俺の出張期間が終わり、日本に帰国することになった。彼女は俺に「もしチャンスがあったら、またアメリカに来て」と告げた。彼女にしても、俺がそう簡単にアメリカに戻れるとは思っていなかったのだろう。
まだ社会人になって2年目だ。人に誇れるような技術も経験も何もない。単身アメリカに渡ったところで、仕事はどうする、どうやって喰っていく? そういった問題を解決する術を何も持っていなかった。

日本に戻り、Shellyから手紙が何度か届いた。当時はまだ、携帯電話もスマートフォンもなかった時代だ。何度か遣り取りをしていたが、気づくと音信不通になっていた。今の時代のようにSNSがあれば連絡を取り合って、互いの近況報告をして、気持ちを確認しあって、物理的距離が離れていても、繋がっていられたのかもしれない。
時代のせいにするのは簡単だ。

単純に当時の若造の俺には「アメリカに行って、Shellyと一緒になろう」と決意出来るだけの気概や覚悟がなかった。日本で、日本語を使って、日本の環境で生きていると、自分の土台が何もないアメリカで暮らすことへの怖れがあったのは想像に難くない。

それから何十年も過ぎて、Facebookが当たり前のように人々に浸透し始めると、俺は自分のフルネームをローマ字で登録した。するとある日、Shellyからメッセージが届いた。
「懐かしいね。何十年振りだろう」そう互いにメッセージを遣り取りした。
Shellyが言う。「貴方の名前、日本人には結構多いのね。同じ名前の人に何人も送ったけど、みんな貴方じゃなかった」
Facebookに登録すれば、Shellyと再び連絡が取れるかもしれない、そう思った俺の読みは当たった。

彼女は自分の娘の写真を送ってくれた。母親の血を引いて金髪で美人だ。もし、あの時俺がアメリカに行っていたら、金髪じゃなくてアジアの血が入ったハーフの子供が生まれていたのかな、なんて思わないでもない。いや、思わないよ。そんな想像をする権利は俺にはない。

ブライアンアダムスが生で歌う"(Everything I Do)I Do It For You"を聴いて、俺はShellyのことを思い出した。無論、演奏中に上に書いたようなことを思い出していた筈がない。せいぜい「あ、そういえばこの曲はShellyと過ごした頃に良く聴いたな」くらいだ。

でもライブが終わってから、ずっと俺はShellyのことを思い出していた。

ライブ後半になり、"Summer Of 69"、"Cuts Like A Knife"、"Run To You"といった代表曲もやってくれた。ライブは最高だった。文句なんか何もない。最上級の誉め言葉以外は出て来ない。
ブライアン、ありがとう。

この夜、ライブに行って良かったと心の底から思った。無論、2つの意味でだ。
10代の頃によく聴いていたミュージシャンのライブを体験出来て、これ以上の喜びはない。
そして20代前半の時の良い思い出が甦った。

あの若き日々はもう戻らない。でも、俺の胸の奥にちゃんとある。それだけで充分だ。