Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

影響を受けるということ

『影響を受ける』という言葉がある。誰それの影響を受けたとか。これをblogに書く人がいる、或いは会話で発言する人もいる。勇気があるなぁ…といつも思う。

俺は10代の頃、「ヤング・ギター」というギター雑誌を毎月購入していた。ギターの譜面が載っており、ロックバンドやミュージシャンのライブ記事なども必ず掲載されていた。ギタリストの愛器紹介みたいなページもあり、ギターを趣味とする若者には最高のバイブルだったと思う。
その雑誌は、後半のモノクロページに読者の投稿コーナーがあった。当時の俺と同じような10代の若者が、自分のギター演奏の写真を投稿し、自己紹介を載せているのだ。
その自己紹介部分には必ず「影響を受けたギタリスト」を書く欄があった。皆、自分のお気に入りのミュージシャンの名前を書いている。「影響を受けたギタリスト:エドワード・ヴァン・ヘイレン」とか「影響を受けたギタリスト:エリック・クラプトン」とかとか。
俺はその欄を読む度に「みんな、すげえ勇気あるなぁ」と感心したものだった。

影響を受けたということは、自分のギタープレイにその好きなギタリストの片鱗が見え隠れするという意味になる。そうでなければ、影響を受けたとは書けない、言えない。
俺は10代の頃はリッチー・ブラックモアというギタリストが好きだったが、口が裂けても「影響を受けた」なんて言えなかった。だって、俺の下手くそなギター演奏のどこにリッチーのプレイのニュアンスが含まれているだろうか。1%たりともなかった。リッチーのギターエッセンスの欠片も俺のギター演奏には存在していなかった。

勿論、中には自分の好きなギタリストの演奏を消化し、血肉としてさらに自分独自の世界まで到達出来る人もいる。だが、そんな人はほんの一握りだ。そういう人はプロになっている。大抵の人は、憧れのギタリストのフレーズをパクったレベルの演奏で終わると思う。俺はパクリレベルにすら到達していない。
今はギターの話をしているが、これは他の楽器も一緒である。

楽器に限らず文章等でも同じことが言える。「俺、xxxxに影響受けてるんだよね」「俺の文章のスタイルって、@@@@@が源流にあるんだ」などと書いている人がいて、これもまた衝撃である。
いやあ、貴方のその文章にはxxxxのテイストを微塵も感じないのだが。あ、どっちも日本語で書いているのが共通なことかな、と皮肉を言いたくなるくらいである。

影響を受けることは悪ではない。音楽も小説も絵画も最初は模倣から始まる。一流と呼ばれる映画監督だって憧れた先人の監督が存在するだろう。これは否定出来ない事実だ。誰だって最初は憧れのミュージシャンや作家の真似をしたりする。そこから始まる。そしていつの間にかオリジンが生まれて、唯一無二になっていく。

俺の好きな作家は池波正太郎である。彼の書生(或いは弟子)に佐藤隆介さんという人がいる(まだご存命なのだろうか)。佐藤さんの書く文章は、読んでいても笑ってしまうくらいに池波文体の影響を受けている。本人も「まるで池波コピーみたいな文章になっていた」と告白していた。自覚はあるんだな。

不思議なのが、好きな人=なりたい人ではないということだ。上記した通り、俺は池波ファンだが、俺は池波小説のような文章を自分のblogで書きたいとは思わない。blogに限らず、例えば俺が作家を目指していたとしても、池波文体を模倣しようとは思わない。そこは違うんだよな。
尤も、俺が書いているのはただのblogであって、エッセイでも小説でもないから、誰それみたいな文を書きたいというのはないのだけれども。
※俺がblogを書いているのは、自分への備忘録が最大の目的だから、文体もへったくれもない、そもそも。f:id:somewereborntosingtheblues:20220414233327j:plain

俺がドラムを叩き始めた切っ掛けは、渡辺文男さんというジャズドラマーの演奏を生で聴いたからだ。彼ほどセクシーで、聴いていて最高の気分になれるドラマーには他に遭ったことがない。
俺は今ドラムを叩いているけれども、彼のように叩きたいとは特に思っていない(すいません。痩せ我慢の嘘を書きました。叩きたいと思っていないのではない、叩ける訳がないというのが正解)。
Saxに関して言えば、俺のSaxアイドルはエリック・アレキサンダーだ(白人のジャズサックス奏者)。だが、彼みたいなSaxは当然吹けない。そりゃ吹ければ、プロのジャズミュージシャンになってるわな(笑)

音楽でも文章でも、俺は「影響を受けた」と言える人が残念ながらいない。影響を受けると言うからには、影響を受けられるだけの技量がこちら側にもないと無理なのだ。
人の技術を模倣するからには、模倣出来るだけの腕が必要である。

だから、「影響を受けた」とか気軽に言える人は、自分に自信があって良いなあと思っている。そういった自信を俺も持てれば、このクドイ文章や、ダサいフレーズの羅列に過ぎないSax演奏も、多少はマシになるのかもしれない。