Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

丘の上の愛

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俺は売れない画家だった。お前は芽の出ないモデル兼女優。2人で貧乏長屋で暮らしているうちに長い時が過ぎた。

「ねえ、あの丘の上に住んでる人のこと、考えたことある?」
お前に問われ、俺は言葉を失う。そんなことを考えて何になるんだ。所詮、俺達とは縁もゆかりもない世界の人じゃないか。それを考えたところで、どうなるっていうんだ?

「ああいった世界に憧れるの?」
俺は不安に苛まされながら、お前に問う。お前は俺のモデルを終え、シーツを胸まで引き上げながら、首を横に振る。
「愛がなかったら、意味ないじゃん」
俺は、ほんの少しだけ安心しながら、それでもお前の瞳の奥に宿った希望を見て不安になる。俺はお前に保証してやれる世界なんて何もない。かつかつの貧しい暮らしに、その日だけしか与えられない愛の日々。俺が自信を持って与えられるものなんて何もない。ただ唯一信じる愛の形以外には……

そして、そんな形なんて何の意味も持たない。俺達みたいに日々の暮らしに追われている人にとっては。
俺はいつだって不安だった。いつだって恐れていた。お前が俺の元を去っていってしまう日を考えては。

「大丈夫だってば。私は貴方の唯一の味方よ。貴方のこと、世界で一番判ってるの、私だもん」
お前はそう言ってはケラケラと笑った。白いシーツを身に纏い、俺の前で笑顔を見せてくれた。その姿を見る度に俺は安心し、俺は独りじゃないと確信出来た。

だが、今、お前はもういない。俺のもとにはいない。広いこのキャンバスには何も残っていない。この空虚な世界を俺にどう演じろというのだろう。笑えばいいのか、狂えばいいのか、それとも愚かな道化師を演じればいいというのか…


窓の外から、貴方のアトリエが見える。独りになった、貴方の姿が悲しく映る。私はどうすればよかったのでしょう? 日々のパンにも困る暮らし。そんなものを望んでいたのが貴方だったのでしょうか。
貴方の描く世界が大好きでした。私を優しく包む貴方の手が大好きでした。貴方に触れられる世界が私の全てでした。
そして今、私は丘の上に住む男のものになりました。だた、貴方を壊したくなくて。貴方を失いたくなくて。

氷のように冷たい男の胸に抱かれて、私は貴方のことを想います。ただ、貴方の熱い想いを思い出しながら……


「なあ。たまには違う絵でも描いてみたらどうだい?」
俺は友に言われ、現実を見る。だが、俺が欲しいのはお前だけだ。他には何もいらない。俺はお前を失って以来、何も描けない、何もイメージ出来ない。ただ、空虚な日々が過ぎて行くだけ。どうしたらいいのだろう、頼むから教えてくれ。
「お前、それじゃ、どうにもならんぜ。抜け出せよ」
友に言われても、俺の心は揺れたまま、何も変わらず、何も変えられず……


「お前が愛しているのは誰なのだ?」
あの人の言霊が冷たく響く。私は、ぞっと背筋に冷たいものを感じ、シーツを胸まで上げる。そんなことをしたからと言って、何も変わらない。
「もう、いい。お前を解放する時が来たようだ……」
あの人は優しく冷たい。私は震える。私の身体にあの人は触れながら、溜息をつく。
「お前が望んでいるのは、私じゃない……」


私は寒さに震えながら、丘の上の家の前に立つ。今から、この丘を降りて、貴方の元に戻って行く。貴方が受け入れてくれるかどうかは判らない。
貴方が受け入れてくれなくてもいい。ただ、私の信じる愛の元に戻って行く。それだけでいい……