そろそろ、自分の人生の岐路に立つ時がやってきたようである。とはいえ、まあそれは多分12月くらいになる予定なので、まだ若干時間がある。
まあ、ここ5年くらいずっと「そのうち来るだろうけど、いつ来るかなあ」と身構えていた部分もあるので、やっと来たかという気もしなくもない。まあ、なるべく後回しに出来るならそのほうが良かったのだが。と、抽象的な事しか書いてないので、何のことやらさっぱりだと思うが、勘弁願いたい。今はまだ詳細を書けないのだ。時期が来たら、書こう。
ということで、昔20年以上前に経験した岐路の事でも書いておこう。当時、大学を3年で辞めた俺はバイトで食い繋いでいた。大学近くの6畳3畳風呂なしのアパートに暮し、銀座の居酒屋で昼夜働いて、糊口を凌いでいた。俗にいうフリーターだ。
だが、ずっとフリーターでいるつもりはなかったので、職探しはしていた。で、とある求人誌に載っていた仕事に応募し、運よく採用して貰った。が、これが転落の第一歩。
その仕事は職場がサイパンだった。あまり詳しくは書けないが、観光関係の会社。なので、当時住んでいたぼろアパートは引き払い、サイパンへ飛んだ。が、まあここが今でいうところのブラック企業で見事に騙された。詳細は書くまい(ほぼすべて覚えているが)。
で、ビザ切れでの一時帰国を利用して、この会社からは脱走した。脱走したのは良いのだが、アパートを引き払っていたから住む家がなかった。最後の選択として群馬の実家に帰るというのがあるが、それをやってしまうと、群馬で一生を終える事になるのは必至だった。
今なら「まあ群馬で一生を終えるのも人生かな」と思えるが、当時まだ20代前半の若さ。遊びたいし、東京に居たい(では、なんで東京にいたい人間がサイパンに行ったのか?という話になるが、それはまた別の話である)。
仕方ないので、当時地方都市で水商売をやっていた女性の世話になる事にした。早い話がヒモである。とはいえ、ずっと面倒になるつもりはなかった。あくまでも職を見つけるまでの一時凌ぎだ。で、地方都市で彼女のアパートでぶらぶらしながら、求人誌を読みふけっていた。「これは?!」という仕事を見つけると、応募の電話をし、上京するという生活を続けた。
で、渋谷にあるソフトウェア会社が求人していたので、これに応募した。面接の前日に上京した。無論、ホテルに泊まるなんて贅沢はしない。当時小岩に知り合いの女性(さっきの女性とは別の人)がホステスをやっていたので、そこに泊めて貰った。ちなみにそこはホステスさん達の借り上げマンションだった。2LDKだったなあ。部屋の中央にリビングダイニングがあり、それぞれ端に6畳と4畳半の部屋があった。俺の知り合いは4畳半のほうをあてがわれていた。
そこでその女性と雑魚寝して翌日の面接を待った。そのマンションの隣に小さなバーがあり「バーテンダー募集。未経験歓迎。一から教えます」と貼り紙があった。俺はその貼り紙を見て、友人のホステスに言った。
「俺、明日の面接駄目だったら、そこのバーでバーテンになろうかなあ」
当時、いくつか面接を落とされていて、就職活動に嫌気が差していたというのもある。ある種の思い付きだったけど、本気でそう考えていた。渋谷のソフトウェア会社に落とされたら、バーテンダーになろうと思っていた。
人生というのは、なぜか自分の思った方向の逆に行くようで、翌日の面接は通り、俺はソフトウェア会社に就職して、プログラマーとなった。そして現在システムエンジニアとして働いている。ちなみにその渋谷の会社は俺が30歳の時に倒産した。その会社の社長も既にこの世の人ではない。
今でも時々思う。あの時、渋谷の会社の面接に落ちていたら、俺は今頃バーテンダーをやっていたろうな、と。俺は上昇志向はないから、きっと独立とかはしていないだろう。雇われバーテンダーをしているだろう。
残念ながら人生はやり直しが出来ないから、バーテンダーになった自分を見る事は出来ない。果たして、零細企業でシステムエンジニアをしているのと、バーテンダーをやっているのと、どちらが幸せかなんて判らない。
そしてもし、今俺がバーテンダーをしていたら「ああ、あんときプログラマーになっとけば良かったなあ」と後悔しているんだと思う。隣の芝は青く見えるものだ。
きっと正解なんてないのだ。そして12月に俺が選ぶ選択にも、どれが正しいかなんて答えはきっとないだろう。
そう思えば、なにを選んで、それはそれで何とかなるような気がしてきた。
人生、ケセラセラだ。