Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

やさしくなりたい

仕事は相も変わらずクソッタレで、おまけに俺が無能なのがチームのメンバーにバレてきた。いよいよもって四面楚歌という奴だ。だが、仕方ない。俺が仕事が出来ないのは、俺がドラムで16ビートをちゃんと叩けないのと同じくらいの歴然とした事実だからだ。
だからといって気にしない、気にならない訳じゃない。俺だって25年以上も社会人をやってきたのだ。そこは多少なりとも矜持がある。だが、そんなものは何の役にも立たない。豚の餌にすらならない。豚に失礼だ。

今日、仕事を終えてビルを出ると、夜中の零時を回っていた。なんでこんな時間まで仕事やってんだろ、阿保じゃねえだろうかと思う。何のために人は働いているのか? 昔、俺が好きだった時代劇で、蘭学者の主人公が世直しを思って、悪人を始末する裏稼業をやっていたという話があった。だが一向に世の中は良くならない。彼は自分の裏稼業を憂い、「俺たちが人を殺して世の中良くなったか? 考えてみたい。俺たちは何の為に生きているのか」と自問する。すると、それを聴いていた仲間の一人(無学な町人)が言う。「何の為に生きてるか、だって? 喰う為に決まってんだろ」と吐き捨てる。このシーンが俺は好きだ。おいおい、喰う為に生きるんじゃないだろ、生きる為に喰うんだろ、と。だが、無駄に頭の良い奴ほど考える。考えて悩むのだ。だから、こういった場合は、単純に頭の悪い奴のほうが生き易いのである。

そして俺が、何のために働いているかというと、物凄く端的に言えば喰う為だ。喰う為の金を稼ぐ為。正直言えば、こんな辛い思いをしてまで働かなくちゃいけないのだろうかと思う。こんな辛い思いしなくたって生きていく方法は他にもあるのじゃないかと。
だが、そこで俺は思うのだ。
俺が何の為に、日々胃が痛くなるような思いを我慢してまで働いているかと言えば、相方がいるからだ。これは別に相方に恩を着せたいとかそういう事じゃない。
俺の仕事の関係で、長年住み慣れた東京を離れ、今、相方は札幌で一人で暮らしている。本当は一日でも早く東京に戻りたいだろう。だが、色々な柵がそれを許さない。札幌にまだまだ住みたかった俺が東京に戻り、東京に戻ることを渇望している相方は札幌で暮らしている。
それもこれも、俺と相方が一緒に暮らしていたからだ。どちらに責任があるとか、どちらが良い悪いという話じゃない。

物凄くシンプルな言葉で言えば、それが縁という奴だ。十数年前に、互いにトチ狂って一緒になることを決め、三年前に俺に札幌での仕事がある事を選択した結果として今の日々がある。
先程の繰り返しになるけど、どちらに非があるとか、どちらの責任が重いとかそういった事じゃない。俺たちは互いに納得してそれらを選択したのだ。その選択を後悔したとしても、だ。

今の会社に所属して三年足らずだ。勿論、帰属意識なんてものは、一切持ち合わせちゃいない。この会社が良いと思った事もない。唯一あるとしたら、フリーランサーや零細企業で働くよりは、金銭的に安定している、それだけだ。他にメリットなんか何もない。だが、50歳を過ぎた老人一歩手前の俺が「金銭的に安心して働ける」というのは非常に大きい。そして、それが相方に対しての安心感も与えている。

相方が東京に戻ってきた時に、俺が今の会社にうんざりしていたら、またフリーランサーでやっていくのも一つの手だろう。だが、相方と離れて暮らしている状態で、「会社辞めるわ」というのはさすがに出来ない。
相方を色々な意味で不安にさせるだけだからだ。

会社の為に身を粉にして働く、なんてのは俺は愚か者のやる事だと思っている。会社はお前が墓場に入るまで面倒を見てくれる訳じゃない。
仕事にやりがいを感じている、仕事が楽しいなんて言う人間も俺は信用しない。何故なら、俺がそう感じた事がないからだ。仕事なんて所詮は飯の種だ。
だが、その飯の種がある事によって、大事な人を守れるという確証が持てるのなら、それは悪いことじゃない。

俺は会社の為に頑張るなんてことは死んでもしない。自分の為に頑張るなんてことも当然しない。でも、誰かの為に頑張ろうと思えるのなら、それは悪い生き方じゃない気がするのだ。
誰かの為に生きるって、なんだか優しくなれる気がしないか。