Some Were Born To Sing The Blues

Saxとジャズ、ピアノとブルース、ドラムとロックが好きなオッサンの日々の呟き

サイパンで一ヶ月暮らしたという事

年末年始になると、芸能人がよくハワイに行く。あれは一体何故なんだろうなあと思っていたら、相方が「海外にいる気分が味わえて、尚且つ日本語が通じるのがハワイだからじゃない?」と答えを返して来た。
なるほど。あながちその答えも間違いじゃないような気がする。それに冬の季節に常夏の国へ行って南国気分を味わうのは悪い話じゃない。

今からもう30年くらい前の話になる。当時、大学を中退して、フリーターでフラフラしていた。何かやりたい事がある訳でもなく、目標も目的もなく、その日暮らしだった。
だが、さすがにずっとフリーター(居酒屋のホール担当)を続ける気はなかったので、求人誌はちょくちょく目を通していた。
ある日、「サイパンで働きませんか」という募集が目に入った。条件に「英語が話せる事」とあったような記憶がするが、30年も前の話なんでよく覚えていない。履歴書を送ると、その会社から面接の日時の連絡が固定電話に来た。当時は、スマホも携帯電話もない、固定電話の時代である。
なんでも今はサイパンはすっかり寂れてしまって、日本人観光客は激減しているのだとか(日本からの直行便が無くなった事も影響しているらしい)。

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面接を受けて、無事サイパンに行く事が決まった。そしてここからがその会社のいい加減なところだったのだが、面接を受けたのが3月くらい。そしてサイパン渡航予定は7月。その間、給料の保証も何もなかった。いや、採用が決まったのが3月で、渡航が7月だから、入社も7月だ。だから、給料発生が7月からとなるのは良い。理解出来る。
だが、3月から7月の間、会社からは一切の連絡がなかった。当時、アパートに住んでいたのだから、正確な渡航予定日が立たないと、部屋の契約解除とかの事務手続きが出来ない。
当時俺は、社会人として働いた事がなかったから、その辺りのことにまったく無頓着で、何も判っていなかった。無知というのは恐ろしい事だなあというのがよく判る。

渡航の三日前に会社から「三日後にサイパン行けますか?」といきなり数ヶ月ぶりに連絡が来た。それまでただの一回も電話も無かったのだ。
三日後? 部屋とかどうするんだよと思ったが、「無理です」と言って「じゃ、採用取り消し」と言われるのが怖かったので、「行けます」と即答した。今考えると、色々な事が駄目である。会社も俺も。
成田空港の所定の窓口に行けば、サイパンまでの片道チケット貰えるからと会社の人間は言った。そもそも、俺が住んでいた場所から成田空港までの交通費も自腹だ。当時はその事にも気付かなかった。
成田空港に行って、言われた通りに窓口でサイパンまでの片道チケットを貰い(会社が俺に呉れたのはこのチケットだけだった)、飛行機に乗った。俺が持っていたのはスポーツバッグに突っ込んだ何日分かの着替えのみ。殆ど着の身着のままだった。
アパートだって解約手続きも何も出来ないまま、放置。部屋にはテレビやギター、布団などがそのまま。これじゃ、失踪である。

サイパンに行ってみると、地獄のように暑く、これが南国か!と衝撃を受けた。また、サイパンは正直言って非常に狭い島で、あまり見所がなかった。これでダイビングやサーフィンやる人の好みのスポットとかあるのなら、そういったニッチな部分で稼げたのだろうけれども。俺はマリンスポーツにも無縁なのでその辺りはよく判らない。
行ってみると、俺の仕事は社長秘書兼通訳という事になった。会社は観光事業を一手に行っていて、ペンション、レストラン経営。そして体験スキューバー、トローリングがメインだった。
従業員は、日本人とフィリピン人が半々くらい。ホテルのクリーニングスタッフはフィリピン人女性が何人か。
会社から「研修という事でホテルの作業やって」と言われて、最初の一週間くらいはホテルの清掃作業のヘルプ。フィリピン人は40代の女性と20代の綺麗な女性(ジェニー)のペア。二人について周り、部屋の清掃やったりタオルのランドリーしたり。
会話は当然、英語。ジェニーは俺より歳下かと思ったら、27歳とかだった。へえ、童顔なんだなあと。彼女と二人でランドリールームでタオルを畳みながら、たわいないお喋りをした。彼女に「いくつ?」と訊かれたので「22歳だよ」と答えると、「貴方は若くていいなあ。私、もう27歳だよ」とため息をついたので、「まだ若いじゃん」と慰めたり。ジェニーと働く時間は、俺にとって楽しい時間の一つだった。

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ホテルの客は90%が日本人なので、たまに日本から持ってきたお菓子やお茶漬けの素が放置されたままだったりする。するとジェニーが笑顔で問う「ねえねえ、これ何?」
お菓子の説明は良かったけれど、お茶漬けを英語で説明するのが難しかったのを今でも覚えている。
そうやって一緒に働いていれば、仲良くなるのは道理である。また、これは俺の所感だけれども、日本人スタッフはどうもフィリピン人スタッフを下に見ているような気がした。日本企業で日本人が社長で、必然的にそうなるのかもしれないけれども、何となくそんな気がした。社長の奥さんはフィリピン人なのにな。それにダイビングスタッフも日本フィリピン混合で、その中で国際結婚をしているペアも一組いたのに。
ホテルのフロントスタッフ(日本人)から「最近、ジェニーと仲良くやってるじゃん。気に入った?」と訊かれて、ちょっと嫌な気分になったりした。そのスタッフは悪気があって言ってるんじゃないんだろう。サイパンに来たばかりの俺に、気を遣っていたのかもしれない。でも、なんとなくその発言に「性的なニュアンス」を感じたのは考えすぎだっただろうか。

レストラン業務も手伝った。レストランの店長は当時35歳くらいの日本人。何故か俺を気に入ってくれて、ちょいちょい声を掛けてくれた。
レストランは夜がメインだから、朝や昼は殆ど客がいない。昼間顔を出すとフィリピン人の清掃スタッフがいた。彼が俺の実弟に顔が良く似ていたので、「君は俺の弟に似てるよ」と話すと、それ以来彼から会う度に「ヘイ、ブラザー」と呼ばれるようになった。
彼から「給料いくら貰ってる」と訊かれたので素直に「1,000(US)ドルだよ」と答えると、彼が「僕は900だ!」と答えたので、結構貰ってんじゃん、と思ったら「二ヶ月でね」と言われた時は、ちょっと考えてしまった。勿論、経済原理的に、日本人のほうがフィリピン人より多く貰っても当然なのだが、唸ってしまった。
或る日、社長から呼び出しを喰らったので何かと思っていると、レストランの奥の席に社長とフィリピン人ダイバー(男性)が座っていた。
「ちょっと通訳してくれ」と社長に言われる。ダイバーは無論日本語は判らない。そこで社長が日本語で話した説教を俺が英語に通訳するという形だった。どうやら、ダイバーが最近遅刻が多く、弛んでいるからしっかりしろという話だった。
「こんな説教も通訳しなくちゃいけないのかー」俺が怒られているのじゃないから、そういう意味では気が楽だったが、なんか俺がダイバーを叱っているみたいで、あんまり良い気はしなかった。

俺はたまたまフィリピンの人達とコミュニケーションが取り易かったから(他の日本人は殆ど英語が話せない)、すぐにフィリピン人達と仲良くなった。
レストランの店長が夕方の営業前に、体調不良で早退した。その時に俺に「なんか体調悪いから帰るよ。マネージャーのレベッカ(フィリピン人女性)に言っといて」と俺を伝言役に。仕方ないから、レベッカに「店長、体調不良だから今日は休むって」と伝えると「なんで彼は私に直接言わないのか?」とレベッカが怒り出した。ま、そりゃそうだな。俺がレベッカだったら、俺だって怒るよ。レベッカは立場上、副店長なんだから。レベッカからしたら、「副店長の自分に言わずに、来たばかりの日本人の若造(俺の事)に伝言させるなんて。私を信用していないのか?」と思っても不思議はない。でも、それは俺がどうこう出来る話じゃないからなあ。
店長は元々グアムで働いていた。彼は「サイパンは詰まらん。ここにいると気分がダウンする。グアムで働きたいなぁ」と年中こぼしていた。俺はグアムに行った事がなかったから、そんなに違うのかなぁとぼんやり思っていたけど。

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レストランは毎週金曜日にフィリピン人の生バンド演奏があった。それが俺のサイパン生活での最大の楽しみだった。俺は或る意味スタッフだったから、空いてる席に座って、彼らの演奏を楽しむ事が出来た。彼らの持ち歌にリチャード・マークスの「RIGHT HERE WAITING」というバラードがあって、それが俺のお気に入りになった。
オーストラリアから来た観光客と同席して(どうしてそういった流れになったのかは忘れた)、デヴィッド・カバーディール(ロック・シンガー)の歌声は非常に良い、みたいな話で盛り上がった。

ある夜、仲良くなったフィリピン人ダイバーから「俺達の寮に遊びに来いよ」と言われて、二つ返事でOKした。寮と言っても、大きめのアパートみたいなところにフィリピン人スタッフが皆で住んでいた。
リビングでバドワイザーを貰って、皆とたわいない雑談に興じた。ホテルの清掃係のジェニーもそこにいた。彼女は物凄く小柄でキュートだった。芸能人の北原佐和子さんに似ていた。それ以来、俺は北原佐和子さんのファンである。これは完璧な与太話なんだけれども、俺がずっとサイパンにいたら、もしかするとジェニーと一緒になっていたかもしれない。そういった予感めいたものって、誰でも持っているだろう。

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業務の一環というか、研修業務という事で、スキューバダイビングもやらせて貰った。ダイビングをやったのはそれが最初で最後だ。
よく、沖縄にダイビングに来て、その海の美しさに惚れてそのまま移住して、ダイビングのインストラクターになっちゃう人の話とかテレビでやっているけれど、その気持ちは判る気がした。ダイビングは確かに楽しかった。
仕事が暇になると、近くのビーチに行ってぼんやりと海を眺めたりした。その辺りをブラブラしていると、別の観光会社の人から「ジェットスキーどうですかぁ?」と声を掛けられたり。観光客と間違えられたんだな。
あと、レストランが終わってから、ホール係のフィリピン人女性達を寮まで車で送ったり。なんとなく、キャバ嬢やホテトル嬢の送迎係みたいな気分になったりもした。

もう30年近く前の話だけれども、やはり俺にとって印象深い事が多かったせいか、結構覚えてることが多いんだよなあ。
一ヶ月経って、観光ビザが切れたので一時帰国した。というか、正規の労働ビザもない状態で働かせているんだから、どんだけいい加減なんだという話である。
帰国して、アパートへ戻って大家に不在にしてすみませんと謝り(大家は保証人である俺の親に連絡を入れていた。当然の話だ)、部屋の荷物を整理した。
それから俺は着の身着のまま状態で、知り合いの水商売の女性に仕事を紹介して貰い、地方都市のパチンコ屋で住み込みのバイトの職を得た。
サイパンには戻らなかった。アパートの整理をしている時に「こんな状況でサイパンに呼ぶような会社じゃ、将来が怖い」と思ったのが、表向きの理由だ。裏の理由はちょっと書けない。ま、ろくな理由じゃない事は確かだが。
パチンコ屋の住み込みのバイトは一ヶ月で辞めた。とにかく、あの「チンジャラジャラ」というパチンコの音が五月蝿くて気が狂いそうになったからだ。あと俺はパチンコを一切やらないので、パチンコのルールも判らないし、暇な店で一日中立っているのが苦痛だった。
その後、水商売の女性のヒモみたいな中途半端な生活を数ヶ月過ごした後、俺は東京でプログラマーの仕事を得た。

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当然の話として、サイパンのジェニーともそれっきりだし、俺を喰わせてくれた水商売の女性とも、もう縁が切れている。
要所、要所で彼女達が俺の救いになってくれたのは事実だった。あの時、彼女達がいなかったら、今の俺はいない。感謝しかない。
俺の残りの短い人生、あとどれだけ海外に行けるかは判らない。ただ、残念ながらサイパンに行く事だけはないだろう。
行ってみたい気持ちはゼロではないけれども。

 

※今日アップした写真は、一枚を除いて全て俺が撮ったものです。但し、場所はシンガポールサイパンではない)。